『ラスト・サムライ』/違っても通じる世界

◇録画していた『ラスト・サムライ』を観ました。以前にも放映されましたが、面白いので再び時間をつぶした次第。それで、前には感じなかった作者の主張?に気付いたので、述べてみます。

1870年代のこの物語を簡単に述べますと、インディアン戦争で心が傷付き、自暴自棄となっていたネイサン・オールグレン大尉=トム・クルーズが、仇敵バグリー大佐の就職斡旋に乗り、日本にやって来るところから始まります。いきなり横浜が出て来て驚かされます。

創設間もない日本陸軍の訓練が任務なものの、命令により、未熟な兵卒を引きいて反乱軍の鎮圧に向い、劇中では「殿」と呼ばれる、不平士族の領袖カツモト=渡辺謙の捕虜となり、彼と武士道に心酔して行く、というストーリーです。

筋立てはハチャメチャ=西南戦争と函館戦争を足して二で割った?様ですが…殺陣のシーンと戦闘シーンがとても迫力があり、魅せます…!

◇◇今回、(あっ!これか!)と思ったのは、カツモトと対立する君側の奸オオムラが放った刺客団と、侍・村人・オールグレンが共に戦って撃退し、味方と認識された後、カツモトと寺社で交わす会話のシーンにありました。

「……人も桜も いつかは散る  吐息の一つひとつに  茶の湯の一杯に  敵の一人一人に命が宿っている  それを忘れてはならん」

「吐息の一つひとつ……」

「それが武士道!」

「はい!」

まあ、武士道とは何か?は人に拠りましょう。私はそれより、国や人種、はたまた職業や階層や年齢や性別が違っても、通じる世界があると訴えている!と感じました。実際にありますよね。信じられます。少林寺拳法で体験しているからです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)