私の主張

-真の活人拳の完成を目指して-

プロローグ

武道の稽古、練習を行う際は脳に対する影響を考慮すべきである。これは、意識と無意識への影響を考慮するという意味であり、頭部へのダメージという意味ではない。

武道の動きは意味のある対人動作・身体運動なので、繰り返し行えば、人格に少なからぬ影響を与えると考えられる。

我が国は、人格形成に良い影響を与える技芸に「道=どう」の字を付けて尊んでいる。しかし、この受け止め方は日本だけに限らず、例えばベースボールやフィッシングなど、スポーツの世界にも似たような概念はあるのであろう。

すべからく技芸の習得には時間がかかり、教授する側とされる側に深い人間関係が生じ、探究心が起きるのは万国共通である。

道による人格形成はそんな環境によって為されるのであるが、特に武道・徒手格闘技を修行(修業)する際、必殺打倒技と不殺不害技・少林寺拳法では、その与える影響は当然、異なるのを予想しなければならない。


武道を教育の立場から論じれば、「生命を尊重する精神が育つ」ものでなければならぬであろう。生命の尊重は全世界、全人類が共通して求める大徳目である。現代における武道修行の意義をここに求めるのに、何の異存もなかろう。

仮に、武道修行により、いわゆる強さなどを得られるとしても、「生命を害する精神」が育つならば、一切の価値はないと言っても過言ではない。いや、そういう精神が育つものを武道とは呼ぶまい。

幸いに少林寺拳法は宗教的バックボーンを持ち、不殺不害の思想と技法を導きやすい。これは大変恵まれていることで、私達が当たり前にとらえている「宗門の行」たる少林寺拳法は、稽古、練習、指導の上で、生命を尊重する精神と葛藤することがない。


開祖・宗道臣師家の教育方法の特徴は、意識と無意識を対立させず協調させる点にあると考える。冒頭述べた「意味のある対人動作」を、これほど意識する武道はあるまい。

尊重の心を象徴する合掌礼しかり、不戦の心構えを象徴する結手しかり、法・ダーマの字を冠した法形演練しかりである。これらの形を繰り返すことにより、拳士は師家の説かれる教えを吸収しやすい体質・人格となる。

つまり、少林寺拳法は思想体系に整合する技法体系なのであり、特殊な不殺不害技と言える。この特殊性が、修行者をして活人拳に向かわせるのである。しかし、活人拳の道程は決して平坦ではない…。

昭和30年度版教範では「乱げいこに就て」と、わずか5行で記されていた乱捕りが、40年度版では「防具着用の乱どりについて」となり、4ページを割かれ るまでの問題となる。これは、修行中の身に起きる落とし穴である。そして師家は、「落ちるなよ!」と懇切丁寧に諭されているのである。


私は師家、晩年の執筆である「十五編、第一章・組演武について(昭和48年度版で追加)」を読むと、大変感動を覚える。活人拳の理想形をここに見るからである。

私にとって「真の活人拳の完成を目指す」とは、自分なりに活人拳を紐解いて行くことを意味する。それは取りも直さず、自己の変革を同志と共に目指す道に他ならない。付け加えるならば、道は楽しい方が良い。

未だ山麓を徘徊?する身であるが、以後、プロローグに沿って論を展開したい。時には趣味のことなども語りたい。末永くこのページを見守って頂ければ幸いである。

2000年9月1日  渥美 紳一